
シャンパーニュは、世界の祝祭と慰めのワインという立場を一身に受けてきました。
結婚式や祝勝会でシャンパーニュが飲まれることはもはや世界的な恒例となっています。
もちろん逆境の時にもシャンパーニュは飲まれることが多く、そんな時は他のどのようなお酒でもできないほどに士気を鼓舞させてくれます(シャンパーニュ ジャクソンなど)。
では、なぜここまでシャンパーニュは特別なお酒となり、存在感を示すようになったのでしょうか?
もちろんシャンパーニュの製法や技術的な知識も必要ですが、シャンパーニュ地方の歴史をすこし知るだけでぐっと理解が深まるでしょう。
ここで、シャンパーニュワインの歴史を押さえてみてはいかがでしょうか。
ルイ15世のころにロマネコンティをコンティ公にかっさらわれたポンパドールはブルゴーニュワインを忌み嫌います。
そしてポンパドールは事の成り行きでラフィットロートシルトとシャンパーニュを寵愛し、そして
「酔って美貌を損ねないのはシャンパーニュだけ」
という超一級のコマーシャルを言ってのけるのです。
このサイトのユーザー様であれば、多くの女性がシャンパン党なのはご存知でしょう。
歴史を知ることで、その理由がわかるかもしれません。
Contents
シャンパーニュ ワインの歴史
発泡性ワイン誕生まで
シャンパーニュの歴史は、ブルゴーニュワインの歴史に比べると歴史的資料はおおく発見されています。
もっとも古いものの一つとしては、約6000年前のシャンパーニュ地方の岩石からブドウの葉の化石が見つかっています。
本格的にワインづくりを目的としたブドウ栽培はキリスト誕生の約50年後だとされています。
ただしこのころのワインは粗悪なもので、品質をごまかすためにさまざまな香辛料で味付けをしていたとされています。
スパークリングワインとしてのシャンパーニュが生まれるまでは、現在のような完成度の高さではなかったのです。
盲目の修道士?
スパークリングワインのシャンパーニュを発明したのは、ベネディクト派の修道士でオーヴィレール大修道院の醸造長であったピエール・ペリニョン(1668~1715 ドンペリニョン)であったとされています。
ピエールペリニョンは盲目であったとされています。
盲目の修道士が現在のシャンパーニュの原型を作ったとするのはなんともロマンチックな話ですね。
しかし、夢を壊すようで申し訳ないのですが、この話には様々な説があり、実際には盲目ではなく、単なるブラインドテイスティングを行っていただけという説もあるのです。
シャンパーニュ地方のワインは、スパークリングワインの形になる以前から微発泡性のワインだったとされています。
というのも、シャンパーニュ地方は冷涼なので収穫を晩秋まで待たなければならず、そうなると酵母が冬の寒さで発酵を自然にストップしてしまいます。
そして翌春になって発酵を再開した結果、自然と微発泡性のワインとなっていたのです。
この流れからすればおそらく、ワインを追求する真の醸造長であれば、泡の存在は煙たい存在だったのかもしれません。
ほかの地区のプレミアムワインは「いかに液体を美しく澄ませるか」に腐心していた時代です。
ワインの泡よりもその中身が重要であるととらえるでしょうし、これはドンペリニョンも同様でしょう。
そのため当初は泡の存在は「強化したいというよりも抑制したいと思ったのではないか」という説が有力なのです。
しかしあるとき、根負けした生産者は
「シャンパーニュ地方は寒いし、どうやったって発泡しちゃうから、この際発泡性のワインとして追求しよう」
意を決してこのように発想を転換したのが1690年代半ばといわれています。
ドンペリニョンの弟子の発見
このように、当初はスパークリングワインを決して良く思わなかったドンペリニョンが、いまでもシャンパーニュの偉大な始祖として名を残しているのは、実は彼の弟子の功績だといわれています。
ドンペリニョンの直接の後継者であったフレール・ピエールが記録した資料に、
①黒ブドウをマセラシオンをせずに直接プレスすることで透明色のブドウ果汁を得る(ブランドノワール)製法
②ワイン造りの北限であるシャンパーニュでは、ブルゴーニュのようなクリマの理屈ではなくて、さまざまな畑のワインをブレンドするほうが向いているという帰結
③炭酸ガスの圧力に耐えうるガラス瓶の導入
など、現在のシャンパーニュでも用いられるロジックを突き詰めているのです。
そして後述する期間を経て、徐々に自然な形で「シャンパーニュ地方のワインは発泡性」のイメージは定着していきます。
当初は嫌われ者だった?
現在のようなスパークリングワインのシャンパーニュは、18世ころから急速に多くの文献でみられるようになります。
ところが、当初のころはワインといえばスティルワインが本来の形であると考えられていて、前述のようにまじめな生産者であればあるほど発泡するワインを受け入れがたかったのだとされています。
これは1715年の文献に、有名ネゴシアンのベルタン・ドゥ・ロシェールが、
「泡立つことはビールやチョコレート、ホイップクリームにふさわしいものだ」
と記しているところに表れています。
ビールやチョコレートには申し訳ないのですが、この表現はつまり
「発泡性のワインは子供っぽい味わいで、決して完成度の高いものではない」
ということなのでしょう。
とはいえ、退廃的なヴェルサイユ時代では、内容よりもはしゃげてウケていればいいやという風情もあり、宮殿内ではすでに人気のワインであったことも同時に記されています。
皮肉を込めた記載になってしまいますが、これは現在の日本のナイトビジネスを検討すると、今も昔も大差がないことがわかります。
シャンパーニュは”勝ち馬に乗ったワイン”?
現在のような発泡性のシャンパーニュを真正面から追求しようという流れが生まれたのは、やはり優秀なシャンパンハウスの出現によるものでした。
記録に残る最初のシャンパンハウスは、1729年に設立されたリュイナールだとされています。
次が1743年、オランダ出身でフランス国籍を取得したクロードモエが後に最大のシャンパンハウスとなるモエエシャンドンを設立します。
モエエシャンドンは、設立後5年で販売量を倍増させ、その結果シャンパーニュの将来性を見込んでシャンパーニュの土地を高騰させるほどの成功をおさめます。
当時フランスはナポレオンの専制下で、これもシャンパンの攻勢に拍車をかけます。
ナポレオン軍が勝利したところにシャンパーニュの販売員が赴いて販路を見出します。
勝利とは逆にワーテルローの戦いで負けても、その敗北を機に占領したロシア軍にシャンパーニュを手土産に持たせて販路を拡大するというしたたかさだったのです。
手土産に持ち帰ったロシア軍の兵士はシャンパーニュに魅せられて、読み通りロシアは後年ですぐに一大輸出国になるのです。
シャンパーニュは、このころから「勝ち馬にのったワイン」つまり縁起のいいワインというイメージがついてくるのです。
近代的技法の台頭
19世紀にはいると、シャンパーニュのワイン業界に革新的な2つの技法が確立します。
まずは1818年、ヴーヴクリコの醸造長であったアントワーヌ・ミュラーが二次発酵の際に生じる酵母の残骸を抜き取るルミュアージュを開発し、外観の美しさを確立します。
次に、1836年には薬剤師ジャン・バティスト・フランソワが糖度計を開発します。
これによって生産者は発酵が進みすぎて瓶が破裂することを事前に予測することに成功し、添加する糖の量を正確に決めることができるようになるのです。
これらの技法によって、シャンパーニュは1840年代に劇的な拡大期を迎えますが、その結果シャンパンメーカーは乱立し、価格競争に悩まされ、品質の低下を招きます。
ワイン生産者や愛好家はこの状況を悲しみ、そして品質を追求する信頼のできるワインメーカーの出現が望まれます。
そして生まれたのがドイツから移住してきた醸造家によって設立されたボランジェ、クリュッグ、エドシックモノポール、GHマム、ルイロデレールなのです。
シャンパーニュとフィロキセラ
ボルドーやブルゴーニュで猛威を振るったフィロキセラですが、シャンパーニュ地方はそれほどの被害を受けなかったようです。
というのも、シャンパーニュ地方はブドウ栽培の北限の場所にあるためフィロキセラが伝播するのがおそかったのです。
1860年代にはすでにボルドーで発見され、実際にシャンパーニュ地方でフィロキセラが発見されたのが1890でした。
そしてそのころにはアメリカ産の台木にフランス産の枝木を継ぐ根本的対策が開発されていたため、最小限に被害が抑えられたのです。
甘口から辛口へ
19世紀の中ころには今でも残るシャンパンハウスが生まれますが、このころのシャンパーニュは、商売的な理由もあって甘口ワインが主流でした。
というのも、すでに超人気化していたシャンパーニュは造っても造っても生産が消費に間に合わず、収穫後12か月以内にすぐ出荷できるように多量の糖分を添加していたのです。
しかし、1860年代にイギリスで辛口(残糖分の少ない)でより長く熟成されたシャンパーニュが望まれようになります。
甘口主体のシャンパーニュでは飲まれる機会が乾杯やデザートの時に限定されますが、辛口であれば昼夜を問わずにどんな時でも楽しめるのは、当時でもわかっていました。
この需要にこたえていくつかのシャンパンメーカーは辛口ワインの製造を検討しだすのです。
もっとも、当時の醸造技術では現在のようなブリュットタイプの辛口までに仕上げるのは難しく、いいとこ半辛口レベルでした。
しかし、半甘口のワインでは食事に合わせることが難しく、ワインを食事とともに飲むワイン文化と決定的に折り合いが悪かったのです。
そこに商機を見出したポメリー社のマダムポメリーは、周囲の反対を押し切って現在のブリュットシャンパーニュを造り出します。
これがヴィクトリア朝ロンドンで大流行し、その流れにほかのシャンパンメーカーが追随し、現在の「シャンパーニュといえば辛口」の原型となるのです。
「うす甘口のワインは食事に合わないから辛口のシャンパンに社運を賭けよう」
という判断はごく当たり前に映るでしょう。
しかし、世の中のシャンパンのほとんどが甘口であった時に真逆の辛口のワインにシフトチェンジすることがどのような決断なのか、想像もつかない重圧でしょう。
極端な話、これは現代のシャトーラフィットが「来年から甘口ワインにします」というようなもので、気でも違ったかと思われるような決断なのです。
当サイトは、変わり者こそ愛するべき存在ととらえていますが、今度シャンパンをお飲みの際に、一人の変わり者の決断があったことを思い出してみてはいかがでしょうか。
きっと普段のシャンパンがより一層味わい深くなるでしょう。
苦難の時代
当時からシャンパーニュはお祝いの席でのワインとして知られていたため、世界的な不景気と二度の世界大戦の禁欲的な生活スタイルは大変な逆風でした。
シャンパーニュ地方のワイン生産者やその周囲の産業の人たちの生活は困窮し、設備投資どころではなくなるのです。
この状況を打ち破るべくワイン生産者はシャンパーニュ地方ワイン生産同業委員会(CIVC)の設立や、日々の粘り強い努力の継続を続けます。
CIVCは現在でももっとも影響力のある組織として知られ、当時の苦境を効率性の追求や現実主義、細部にわたる品質のコントロールに目を光らせました。
そして世界大戦の終結と世界的経済発展、そして一番がシャンパーニュの品質と営業努力によって徐々に実績が回復し、そして現在の確固たる名声を確立するのです。
~現在
現在のシャンパーニュは、常に供給よりも需要が勝り、いつブドウが枯渇してもおかしくない状況が続いています。
枯渇するは言い過ぎかもしれませんが、世界的に増大する需要に生産は限界に近付いているのが現状です。
前述のようにシャンパーニュは宴の席に供されることが多いため、例えば2007年のアメリカのサブプライムショックのような世界的な経済危機が起こると一気に消費が冷え込みます。
しかし、シャンパーニュの生産者からすれば世界的経済危機があっても回復すれば消費は戻るし、生産が賄えると考えている傾向すらあるのです。
シャンパーニュは、第二次世界大戦以降、経済的には一人勝ちの状況が続いています。
シャンパーニュメゾンは、メゾンの中では小さくてもその売上は日本の一流企業並みですし、フランス全土でもっとも平均所得の高いのはシャンパーニュ地方なのです。
ただしこれは先天的にあったものではありません。シャンパーニュ地方は決して恵まれた環境ではないのです。
もともとブドウ栽培の北限にあって、収穫期も遅く糖分が上がりきりません。
そんななか、「なんとかして消費者に喜ばれるワイン造りをしよう」という生産者の熱意がなければ成り立たない成功であることはいうまでもありません。
シャンパーニュを一口含むときのウキウキする気持ちは、それだけでおいしく感じるものでしょう。
ここまでお読みの皆様には、次回シャンパーニュをお飲みのとき、シャンパーニュの歴史を思い返してみてはいかがでしょうか。
きっとそれまでの味わいがより一層おいしく感じることをお約束します。