ワイン用語集フランスワインボルドーのシャトーボルドー地方生産者

シャトーオーブリオンとは?その特徴と歴史

「豊かな香りとエレガントさではシャトー・オー・ブリオンの右に出る者はいない」

世界で最も影響力があるワイン評論家、ロバート・パーカー氏はオーブリオンをこう評しています。

 

栽培面積は50ヘクタールと1級ワインとしては小ぶりです。

グラーヴの街並みが消えるか消えないかのところにいきなりぬっとあらわれる畑がオーブリオンで、こんな街中にあるのかと違和感を感じるほどです。

年間生産量は16000ケース、赤と白を生産していますが、格付けは赤のみです(白は生産量があまりにも少ないため、格付けを辞退した経緯があります)。

ブドウ品種は、カベルネソーヴィニヨンが45%、メルローが40%、若干のカベルネフランで調整をしています。

 

 

シャトーオーブリオンは1855年ボルドーワインのメドック格付けで第1級を獲得しています。

1級の認定を受けたのは4つ。

うち、3つはメドック地区(ラフィットロートシルトラトゥールシャトーマルゴー)。

オーブリオンだけがグラーヴ地区のシャトーでした。

ここで多くの人は、

メドックの格付けで、なぜグラーヴから選出されたの?」

と不思議に思うでしょう。

これは日本でいえば、山梨産ワインの格付けに長野県産のワインを1級に組み込むようなものです。

 

では、なぜ例外を認めたのか?

これはいろいろ論じられていていますが、決定的に後述するグラーヴの歴史的重要性が後押しをしたことは間違いなく、後発組だったメドックのワインに一矢報いることになるのです。

 

もっとも、この話を聞いて
 
「メドック以外から1級に例外的に選ばれるなんて、なんてすばらしいんだ」
 
と思う人と、
 
「国家が主体で格付けを行うのに、例外を認めていたら信頼がないじゃないか」
 
と考える人もいます。
 
そして後者の意見は現代国家ガバナンスから言えば当然の理屈で、あってはならないことでしょう。
 
もちろん品質が素晴らしいということもありますが、同時に1855年の格付けに批判のつけいるスキを作ってしまったということでもあるのです。

なお、シャトーオーブリオンで面白いのが、シャトーディケム白ワインをうらやましがった主人がイケムから苗木をもらって植えたところ、成り行きで甘口ではなく辛口に仕上がったという逸話でしょう。

現在ボルドーで最高値を付けるこの白ワインは、グラーヴの白ワインのけん引的存在になっています。

 

シャトーオーブリオン

グラーヴから選ばれたメドックの1級シャトー

1525年、実業家で、ボルドー高等法院に勤めていたジャン・ド・ポンタックのもとに、リブルヌ市長の息女、ジャンヌ・ド・ベロンが嫁いできました。

彼女の資産のなかにあったのが、ジロンド県グラーヴ地区ペサック村のブリオンという土地。

1533年に邸宅を構え、1549年から1年ほどかけてシャトーを建設しました。

その後、1649年に相続によって所有者となったアルノー・ド・ポンタック3世は息子、フランソワ・オーギュスト・ド・ポンタックに本格的なワイン造りを命じます。

当時、ボルドーでワインの産地と言えばメドックではなくグラーヴ。

フランスワインはまだ現在ほどの評価を得ておらず、現在でいうロゼ色で飲みやすいクラレットという愛称で親しまれていたのです。

 

 

空前の好景気

18世紀初頭から19世紀末まで、ボルドーワインの最大顧客であるイギリスの無尽蔵にある需要は、ボルドーの街に空前の好景気をもたらします。
 
もっとも、この好景気は品質の良さに消費者がついてくるという構図ではなく、”クラレットであればいい”という大衆的な消費者心理だったのです。
 
生産者側もそこはある程度把握していて、その結果品質の向上よりも目先の売り上げに踊らされ、内部腐敗を起こすシャトーも少なくありませんでした。

 

クラレットがまだ飲みやすい明るめのロゼワインであったころからオーブリオンのワインは色が濃く、味わいも豊潤で他を引き離していました。

また、この当時は治安が良くなかったため(ごろつきは盛り場を探すのが得意)、ボルドー市に近いオーブリオンは立地としても都合がよく、まずは貿易用として発達します。

↓の地図を見てもお分かりの通り、ボルドー市に近いシャトーオーブリオンは港湾流通の面からも地の利があったのです。

↓の画像のように当時のワインはまだ樽詰めで流通をしていました。

現在よりも悪知恵が幅を利かせる時代ですから、悪い表現をすれば一度でも他人の手に渡ったワインは素性も怪しく、インチキはやろうと思えばちょろい時代だったのです。

そのため港に近ければ近いほど不正がしにくかったことも発達の要因でした。

この辺りの理由から、メドックに先駆けてグラーヴは輸出向けワインとしての地位を確立していたのです。

フランソワ・ポンタックは従業員をドイツに視察にやるなどして改良を重ねていきます。

スーティラージュウイヤージュといった技術も採りいれました。

最初のころは「ポンタックのワイン」として売り出していましたが、品質の向上が目覚ましかったため、ある時ブランディングを試みます。

ブリオンという土地の名に偉大という意味のオー(Haut)をつけ、さらにシャトーでできるからとシャトーオーブリオンと名付けるのです。

 

醸造責任者であったオーギュスは経営的センスもあり、ロンドンに現在でいうオーベルジュのような居酒屋兼旅籠を開業。

これが大いにウケて、ここでもシャトーオーブリオンを売りまくります。

ロンドン中の名士、学者、文筆家をひきつけ、大当たりしてヨーロッパじゅうにオーブリオンの名前を知らしめたのでした。

 

 

今日的な意味での高級ワインの走りであるオーブリオンは、こうして生まれます。

いわばシャトーワインの創始者でもあるのです。

 

 

不遇の時代

後継者だったフランソワの義理の甥、フランソワ・ジョセフ・ド・フュメルが貴族階級のためフランス革命によってギロチンに消え、いったんオーブリオンの歴史は仕切り直しをします。

革命の結果、いったんは国有化されたオーブリオンは競売にかけられ、折悪しくフィロキセラや病害による不作により、不遇の時代が続きます。

ボルドー全体の資産価値も低下し、ネゴシアンも手を引き始めた頃でした。

1935年アメリカの銀行家、クラレンス・ディロンが所有者となります。

支配人として雇用されたのがジョルジュ・デルマス。

古いデキャンタを模した、特徴的なボトル・デザインはこのころから使われるようになりました。

ジョルジュの息子、ジャン・ベルナール・デルマスはステンレス製発酵タンクの採用や醸造所のオートメーション化など、多くの革新的な技術を採りいれることで、独自の味わいを作り上げてきたのです。

後々考えれば、このころがオーブリオンの夜明けでした。

 

1982年以降

奇跡的なヴィンテージとされる1982年を境にボルドー全体が息を吹き返し、街にも活気が戻ります。

その後の天候に恵まれた各シャトーは以前の浮かれた経営をした反省から、今度は手堅く設備投資に利益を回します。

もともと優れた環境と世界的な知名度があったため、名誉回復のスピードははやく、一気に世界一のワイン産地の名をほしいままにするのです。

 

オーブリオンは、グラーヴの数多いシャトーの中でも品質がだんとつにとびぬけている謎には様々な研究がされています。

一説にはオーブリオンの畑はポイヤックの、とくにラトゥールの地層とよく似ていて、これがワインに優美さを与えているといわれています。

もちろん先天的なものだけではありません。

時代に合わせて新しい技術を取り入れる決断力、ブドウの樹齢の高さ、優れた醸造・栽培の技術などの地道な努力が栄光維持の基礎なのです。


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