赤、白ともに造っていますが、赤ワインのみが格付けされているグラーヴ地区タランス村のワインです。
メドック第1級クラスの高い評価を受けていて、年によってはシャトー・オー・ブリオンに迫るほどの価格がつきます。
カルベネ・ソーヴィニヨンが48パーセント、メルロが45パーセント、カルベネ・フランが7パーセントの割合で栽培されています。
栽培面積は20ヘクタール、年間生産量は8000ケース弱と大きくありません。
ワインは本家のオーブリオンと似ていますが、比べるとややしなやかで熟成が早く進み、オーブリオンのような薫香が少なく変わりに腐葉土のような第3アロマが感じられます。
グラーヴ全体ではトップの評価なのですが、いかんせんオーブリオンの独走状態で、それに次ぐワインということで取り上げられることの多いシャトーです。
シャトーラミッションオーブリオン
グラーヴトップのシャトー
ラ・ミッション・オー・ブリオンはもともと、ルイ・ド・ロスタンの領地でしたが、1540年、商人のアルノー・ド・レストナックに売却されます。
間もなくアルノーは実業家で、ボルドー高等法院に勤めていたジャン・ド・ポンタックの妹、マリーと結婚します。
ジャンヌ・ド・ベロンと結婚したことでシャトー・オー・ブリオンを所有することになった兄、ジャンのようにマリーもまた、アルノーの妻として、ラ・ミッション・オー・ブリオンのオーナーとなりました。
その後シャトーは、息子のピエール、ピエールの息女オリーブ、オリーブの息女カトリーヌ・ミュレへと受け継がれます。
1664年、カトリーヌは母、オリーブの意志に従ってシャトーをビンセンシオ布教宣教会(ラザリスト会)に寄贈しました。
このころのワインは聖職者たちの食卓用に造られることが多かったのです。
ラザリスト会の創立者はヴァンサン・ド・ポール。
貧しい人々に尽くしたカトリック教会の司祭はワインの守護聖人、聖ヴァンサンとしてラ・ミッション・オー・ブリオン内の教会にも祀られています。
ちなみにシャトー名のミッションは布教という意味で、ラは冠詞、オーはgreatの意、ブリオンは昔の地名です。
1789年、フランス革命によりシャトーは没収されてしまいます。
1792年競売にかけられ実業家、マルシアル・ヴィクトール・ヴァイアンが落札。
マルシアルの息女が受け継ぎますが、1821年、アメリカ出身のセレスタン・シアペラに売却されます。
これを契機に販路が拡大。一段と高い評価を受けるように。
1862年のロンドン万博では金賞も獲得しています。
その後も何度かオーナーが変わり、1983年から現在に至るまでクラレンス・ディロン社が所有しています。
CEOはルクセンブルクのロベール皇太子です。