シャトーラグランジュは、日本の飲料メーカー、サントリーマーケティング&コマース株式会社が所有する3級シャトーです。
シャトーはサンジュリアンにあってかなりの内陸に位置します。
サンスーラン村との村境近くのこのシャトーは歴史が古く、メドックでも中心的な場所に位置しています。
栽培面積は113ヘクタールあって、これもメドックでは相当広い面積です。
しかし元々は300ヘクタール以上あるメドック最大のシャトーでしたのでフランス革命以降このシャトーを所有できるのは相当な資産家でした。
フランスの食文化と伝統の権化のボルドーの格付けのこのシャトーを日本企業が買収するというのはフランス国民にとっては受け入れがたい事実でした。
理性ではフランス商法に従ってはいましたが本音ではどのような罵詈雑言があったか、このサイトをご覧の皆様には想像が容易かとは思います。
保守の権化のボルドーワイン界では、日本の進出にあらゆる罵詈雑言は想像に易いですが、もちろんこの程度は買収するときの想定事項でしょう。
社長にはボルドー大学出身のフランス人社長をおき、日本経営陣の粘り強い努力と人格で徐々に信頼を得ます。
当初は白い目で見ていたボルドーワイン界から温かく迎え入れられるようになるのです。
歴史あるボンタン騎士団(メドック地区グラーブにあるワイン協会)にも正会員として迎えられ、その技術と真摯な姿勢に称賛の声が集まっています。
シャトーラグランジュ
メドック最大級のシャトー
ジロンド県メドック地区サン・ジュリアン村に位置するシャトーは、1287年にはテンプル騎士団の荘園の一部だったという記録が残っています。
もともとはラグランジュ・ド・モンティーユ家が寄進したものです。
聖地奪還という大義名分のもとに結成された十字軍によってエルサレムまでの巡礼の道が確保されますが、物騒だったので、だれかが巡礼者を保護する必要がありました。
そこで治安維持を買って出たのが騎士修道会。これは武装して戦闘にも従事するという、闘う修道士の集団です。
複数、そうしたグループが存在するなかでテンプル騎士団は最も有名ですね。
彼らは財務管理に長け、農園や艦隊、さらには島(キプロス島)までも所有していました。
フランスの国庫としても機能していましたが、14世紀初頭、その資産に目をつけたフィリップ4世によって壊滅させられてしまいました。
その際、シャトーはポイヤックとラグランジュの領主たちに分け与えられたのです。
17世紀初め、王室砲兵隊輜重(しちょう:弾薬などの戦いに必要なものを携行し、補給する部署)隊長を務めていたジャン・ド・ヴィヴィアンが所有していました。
そして1790年にはジャン・ヴァレル・カバリュス(ナポレオンの閣僚)がオーナーとなっています。
トスカーナ様式の印象的な塔は、このとき建てられたもの。
ローマ出身のフランスの建築家、ヴィスコンティの作品です。
畑の排水設備を考案、敷設したのは1842年に所有者となったデュシャテル伯爵(ルイ・フィリップ朝の大蔵大臣)です。
1855年の格付けで3級を獲得できたのは伯爵の功績によるものが大きかったとか。
1925年、スペイン バスク地方のセンドーヤ家の所有となりますが、厳しい経済状況の下、管理が行き届かず次第に評価を下げていきました。
1983年 サントリーがシャトーを購入。
莫大な費用を投じて少しずつ、少しずつ再生、進化を続けます。
300ヘクタール以上あった畑は経営悪化により徐々に切り売りをされましたが、残ったのは(157ヘクタール)幸いにも質の良い畑であったことが幸いします。
ボルドーのシャトーは、売り上げもものすごい額ですが、支出も大きく「金食い虫」と言われます。
ましてや評価を落としておざなりにされていたシャトーであればなおさらで、サントリーの覚悟がうかがえます。
まずは荒れ放題であった邸宅を美しく修復させ、さらに醸造所とセラーを徹底的に刷新、畑では排水工事を進めます。
伝統的に植えられていた品種は研究の結果、最適な品種ではないことが判明したため、これも適合品種に植え替えます。
買収したときのバッシングをよそに、数年後には酒質も向上し、植え替えたブドウからワインを造るとこれが2級並みの評価を得るようになります。
こちらの記事もお勧めです。
ここからはPRになります。
当サイト「ワインの教科書」は、高品質ワインのオンラインショップ「ワインブックス」を運営しています。
もしあなたが当サイトでワインに興味をもち、「実際に飲んでみたい、手にしてみたい」そう思ったときに覗いてみてください。
きっと素晴らしいワインとの出会いが待っていることを、お約束します。