シャトーランゴアバルトンのラベルには、成功や勇敢さ、英知、家族愛などの象徴とされるオオカミがデザインされ、ラテン語で“誠実と勇気”と記された旗が掲げられています。
サンジュリアン村にあって格付け3級、レオヴィルバルトンとは兄弟関係にあります。
シャトーランゴアバルトンは、1821年のシャトー創設以来、オーナー家が変わっていません。
(ただしシャトー創設以前はフランス革命で革命国家に没収されたり一家が離散したりなどの落ち目も経験していました。)
ボルドーのシャトーは投資対象としては面白みがあって、特にメドックの格付けシャトーになるとそのブランド効果もあり、高値で売買されます。
シャトーオーナーは経営がうまくいっているときもあればそうでないときもあり、キャッシュポジションの確保のために売りに出されることも多いのです。
にもかかわらず長い期間に所有者が一貫しているということは、それだけワイン造りにこだわりがある証拠でしょう。
セパージュはカベルネソーヴィニヨンが70%、メルローが10%、残りがその他です。
栽培面積は15ヘクタールほどと小ぶりで、日本にはほとんど入荷されません。
そのためこのサイトのユーザー様でも実際に飲んだ方は極少ないでしょう。
シャトーランゴアバルトン
サンジュリアンの3級シャトー
1722年、27歳のトーマス・バルトン(トム・バルトン)は貿易商だった母方の叔父2人の影響で、フランスでのビジネスを志します。
故郷、アイルランドからマルセイユ経由でモンペリエに入りました。
17世紀末から18世紀初頭のフランスはルイ14世政権下の財務長官、コルベールの経済政策のおかげで商業が盛んだったのです。
1725年、トーマスは商業港としてにぎわっていたボルドーへ移り住みます。
中世期まで盛んだった地中海貿易は影をひそめ、舞台は大西洋に変わりつつあったのです。
トーマスはワイン商、ダニエル・ゲスティエと緩い共同経営関係に入り、事業に参画することになります。
そしてゲスティエ&バルトン社を共同で立ち上げます。
トーマスの誠実な仕事ぶりは評判となり、“フレンチ・トム”と呼ばれて親しまれました。
1743年、息子が生まれ、ウイリアムと名付けますが、険のある性格で事業むきではありませんでした。
1780年、トーマスは85歳で逝去します。
ウイリアムには6人の息子と3人の息女がおりましたが、4番目の息子、ヒューがワイン・ビジネスを引き継ぎます。
1786年、ヒューはまだ若干20歳でした。
才気あるヒューの活躍で会社の売上高は250万ポンドにも上りました。
ヴィクトリア王朝時代(19世紀)の1ポンドが5万円ほどだったと言いますから、そのころであっても1250億円に上ります。
1793年10月14日、フランス革命によりヒューとその妻、アンナは逮捕されてしまいます。
父のウイリアムは病身だったため、投獄は免れていたのですが、10月23日、帰らぬ人に。
12月21日、ヒューとアンナは釈放されますが、フランスを離れアイルランドに身を潜めます。
1821年、ウィリアムが残した莫大な遺産を原資にジロンド県メドック地区サン・ジュリアン村のランゴアという区画を購入。
この土地はシャトーポンテカネの広い領地を整理して立て直しを図ろうとしてポンテ家が売りに出していたもので、これがシャトー ランゴアバルトンのはじまりなのです。
1855年の格付けでは3級に認定されますが以後、3代にわたってイギリスに居住。
1924年オックスフォード大学出の秀才、ロナルドがボルドーに居を移します。
子どもはいませんでしたが、甥のアントニーが引き継ぎ、息女、リリアン・バルトン・サトリアス、更には孫のメラニー、ダミアンとともにシャトーを守っているのです。