現在、ワインの生産流通に規制をかける法律は、フランスではAOC,イタリアではDOC、アメリカではAVAなどがあります。
一般的には「法律によって市民が縛られている」と思われがちでしょう。
縛っていることはその通りなのですが、もちろん縛るにはきちんとした意味があります。
日本の場合、どの法律でも最初の第一条は立法趣旨といってなぜその法律が存在するのか、どのような目的なのかがはっきりと示されています。
ワインに関して言えば、法律によって生産者に一定の規制を課すことで誠実な生産者と消費者を保護し、流通が市場任せになってしまうことを防ぐことがその目的でしょう。
今回は、フランスのワイン法を中心に、なぜワイン法が生まれたのか、その経緯を探ってみることにしましょう。
・・・ところで、「法律」という言葉で拒否反応を起こす人も多いかと思います。
日本にはワインを個別に取り扱う法律がないため、これは仕方のないことかもしれませんが、とらえておくことでワインがより一層味わい深くなります。
ざっくりと全体像としては、
①フランス革命によってワインは貴族のものから市民のものへとシフトチェンジします。
②その結果消費量が増え、国内ワインだけでは足りずに輸入ワインに頼るようになります。
③そのうちに輸入ワインを中心に粗悪ワインが横行するようになります。
④この流れを規制するために法律が必要となり、2度の改正を経て現在のAOC制度が生まれます。
この流れをまずはおさえたうえで、読み進めてくださることをお勧めします
Contents
ワイン法の誕生
1900年の宴
パリ万博の第一共和制布告の記念晩さん会は、大統領主催で華々しく行われました。
テュイルリー公園で行われた仮設テントに、長さ7キロに及ぶ長テーブルには全国の自治体の長が招かれ、20世紀を目前に控えた高揚感に包まれたのです。
この宴会で使われた皿数はなんと14万枚、牛は500頭、鶏は70万羽という農業国フランスならではの壮挙です。
ワイン関係者にしてみればフィロキセラの難をようやく逃れ、ウドンコ病にもベト病にも打ち勝ち、現在のプレミアムワインの原型はすでに出来上がりを見せたころでした。
ワインの生産量は飛躍的に伸びて1899年は大豊作で、その後の1900年もこれに次ぐ作柄が約束されたようなものでした。
誰の目にもフランスワインの将来はバラ色に映っていたことでしょう。
宴会は、1900年の9月22日。1900年ヴィンテージの収穫の直前でした。
これは何を意味するのかというと、このような盛大な宴を市民が主催する形で行われたという事実でしょう。
それまでは貴族でなければ行えなかったようなことが行われ、この宴は「国家は市民のものなんだ」という強い証でもあったのです。
それまでワインは一部の特権階級の人のものだったのが、市民主導の国家体制に移行したことで一般大衆もお金さえ払えばだれでも飲めるようになります。
その結果ワインの需要は爆発的に伸び、ワイン業界は経済的に大成功を収めていたのです。
1900年以降
ところが、その後数年すると状況は激変し、ワイン業界は打ちのめされることになります。
20世紀前半はフランスはもちろん世界のワイン業界にとって最悪の状況が続きます。
1901年、1902年、1903年、1905年と凶作が続き、その後にブドウの病気が流行し、収穫量は激減するのです。
ワイン業界だけではありません。世界的にも不幸な連鎖が止まりませんでした。
1905年にロシア革命、1914年から1918年までの第一世界大戦がおこりフランスはシャンパーニュと甘口ワインの大の得意先を失います。
1920年にはアメリカで禁酒法が施行されこれが14年続き、1929年にニューヨーク株式市場が大暴落し、これに端を発する形で世界恐慌に突入。
景気が一息つく間もなく1939年に第二次世界大戦がはじまり、これが1945年に終わり、その後遺症を脱するにはさらに10年以上もの年月が必要だったのです。
世界は混とんとした時代ではありましたが、ではワインはどうだったかというと、傑出した年がしっかりと存在することに驚かされます。
普通の感覚であれば政治も経済も最悪な状況の中ではまともな文化など承継されないと思うかもしれませんが、ワイン造りは決して分断されませんでした。
ボルドーでは1900年、1920年、1926年、1928年、1929年、1945年
ブルゴーニュでは1906年、1911年、1915年、1919年、1929年、1937年、1945年
これらの年は現代でも通用する傑出するヴィンテージとして知られています。
世界中の政治家が覇権争いをしている苦境にあっても、優れたワイン造りの生産者は決してあきらめずにワインの品質にさらに磨きをかけていたのです。
まがい物の横行
これは意外かもしれませんが、1870年ころまではフランスはワインの輸出国だったのですが、その後に国内の需要が伸びた結果、ながいこと輸入国になった時期があったのです。
輸入先はイタリアとスペイン、のちにアルジェリアがこれに加わります。
そしてこのころから偽造ワイン、まがい物のワインが横行し、徐々に社会問題となってくるのです。
輸出目当てに造られたイタリアやスペインの生産者は、目先の利益のために低価格のワインにシフトチェンジします。
ひどい話ですが、アルコール度数が11%を超えると関税が高くなるので味のすえた安ワインにわざわざ水で割ったワインを混ぜて輸出をするまでに落ちぶれるのです。
しかし、フランスの旺盛な消費意欲は止まらずワインの消費量は増加し、そのうちに消費と供給のバランスが崩れていくようになります。
輸入業者は儲けのためなら手段を択ばず、相変わらず粗悪なワインを流通させるのですが、これを調整する社会的なメカニズムがないため市場は大混乱に陥るのです。
1907年 「カイヨ法」
こうした背景をもとに、フランス国家はまずは1907年6月に「カイヨ法」という法律を施行します。
この法律は、初めて「ワインとは何か」という定義をします。
カイヨ法では
「ワインとは、新鮮なブドウ又はその果汁を発酵させたもの」
という極めてシンプルな定義をし、そのうえでアルコールや砂糖の添加、水増しを禁止します。
生産者には毎年の生産量や在庫量の報告を義務づけ、輸入業者には生産者やその関係者への販売を禁止するのです。
これによっていったんは粗悪ワインは姿を消し、本来の消費形態に落ち着きを見せます。
そして、カイヨ法は法律の不備を捕捉する形で1919年制定の後継法”原産地呼称規制法”に引き継がれることになるのです。
1919年 「原産地呼称規制法」
カイヨ法はいったんは粗悪ワインの締め出しに成功するのですが、それ以上にしたたかだったのはやはり悪徳業者だったのです。
いくつもの抜け穴をくぐりぬけ、数年するうちにまたしても粗悪ワインが横行することになるのです。
そして制定されたのが1919年の原産地呼称規制法でした。
この法律により、呼称の不正使用によって利益の侵害を受けた生産者は裁判所に訴えることができるようになったのです。
ところがこの法律も数年のうちに抜け穴が見つかります。
その抜け穴とは、ラベルに生産地名を表示せずにワイン商の本拠地の住所を大きくラベリングして消費者の目を誤魔化すというものです。
色々な産地のワインを安く仕入れてブルゴーニュの有名産地でブレンドし、そこの地名を大きく載せる、というイメージでしょう。
これではすでに名声を確立したワインの生産者からすれば「名声のただ乗り」で、結果として粗悪ワインが長年かけて築き上げたブランドイメージを棄損することになるのです。
これは当時のジョークで、現在ではシャレにならないのですが、20世紀前半のワイン業界では
「ブルゴーニュいちの生産地はボーヌの駅さ」
という皮肉がささやかれていました。
これは何を意味するのかというと、鉄道で運ばれてきた安ワインをボーヌ駅ちかくの工場でブレンドし「ボーヌのワイン」として売りに出されていた、ということなのです。
南のエリアで造られたワインは色が濃く、これをブルゴーニュ産の二束三文のワインにブレンドして世に出しても法律的には違反ではなかったのです。
これに動いたのが南フランスの名酒シャトーヌフデュパプの生産者組合でした。
粗悪業者を相手取り裁判を起こします。シャトーヌフの生産者からすれば自分たちが長年かけて築き上げた名声をまがい物に奪われるわけですから、この怒りは当たり前でしょう。
つかんだ勝訴判決には
「厳密に限定した産地の範囲はもちろん、ブドウ品種やワインの最低アルコール度数なども記載するべき」
文言が判旨が盛り込まれていたのです。
この判旨が1935年のボルドーで開催されたブドウ栽培者組合全国会議の国家要望決議にそのまま採択されます。
そしてこれを受けて1935年に現在のAOCが制定されることとなるのです。
1935年 AOC法
AOC法は、まずワインの地名を表示できるエリアと地区を定め、栽培方法や収穫量、アルコール度数などの規定を定めてこれを満たしたもののみ名乗れるようにします。
そのうえで、生産エリアが小さくなればなるほど要件を厳しくし、これを格付けに組み込み、ワインの質を消費者がラベルを見て判断できるようにします。
なお、この要件は法律が各地方の半民間の組織に委任する形をとっていて、その地方の生産者やその関係業者、知識人で構成され決定し、これを国家が受け入れる形をとっています。
この法律は世界中のワイン生産国の法律で骨格とされ、イタリアやスペインもほぼ同じ形をとり、その他のヨーロッパ諸国もおおむね同ジシステムのワイン法が存在します。
ドイツは冷涼なため、昔から糖度が重要な要素なので独特のワイン法の形態があります。
一方、アメリカを含めたいわゆるニューワールドは、土地をベースにしたワイン表示をするということがもともとありませんでした。
そのためヴァラエタルワインというシステムが採用され、消費者は産地よりも品種名でワインを選ぶというまったく異なる法制度が存在します。
日本は・・・?
これらのワイン法は、ワインのながい歴史から見ればまだ制定されたばかりで、その意味では画期的といえるものでしょう。
ワイン法で生産者やその関係業者に規制があることで不正業者を締め出し、その結果誠実な生産者を保護することで、結果的に消費者を保護するのです。
では、日本はどうかというと、個別のワイン法というものは存在せず、酒税法やそのほかの基本法を適用する形であるだけなのです。
水を差すようで申し訳ないのですが、現行の制度を「日本のワイン法」とするには違和感を感じている人は多いかもしれません。
酒税法は本来の目的は税収の確保なので、この目的の中にワイン保護を組み込んでいるという何とも情けない状況といえるでしょう。
(関係者さんには大変に失礼ですが)日本では残念ながらいまだに
「みかんワイン」「イチゴワイン」「マンゴーワイン」
などの商品があり、ここまでお読みのワインファンであれば腹の一つでもたつものでしょう。
「ワインとは」の定義をすることがどれほどの苦難を経ているのか、その苦難を知っている人からすればやすやすと「ワイン」の名前にただ乗りすることにいい気がするわけがないのです。
2018年10月に国税庁がさだめた「日本の国産ワインとは」の適用規制がありますが、これは通達なので広義には法ではありますが国会決議を経た法律ではありません。
「じゃあ早く日本でもワイン法を制定しよう」
という考えの人も多いかもしれません。特にワインファンであればなおさらその思いは強いでしょう。
しかし、実際にワイン法を制定しようとなると、大きな問題がいくつかあって、その一つが日本酒や焼酎など日本固有の酒の法制度でしょう。
日本が誇る文化の日本酒や焼酎を規制する法律もいまだに酒税法が基本になっているので、いきなりワイン法を制定しようとすると
「なぜ日本酒に規制法がないのにワインが制定されるのだ」
という声は当然に想定されるのです。
日本のワイン業界にとっては、現状は粘り強く日本のワイン文化のすそ野を広げる、そのタイミングなのかもしれません。
今回は、ワイン法は20世紀の前半に本格的に法整備がされていることを見てみました。
20世紀は、ワイン界にとっては前半と後半で際立った違いがあって、前半は苦難、後半は躍進の時期でした。
おそらくほとんどの人はワインを購入するときに
「このラベルはうそを言っていないかなあ?だまされていないかなあ?」
と疑ってかかることはないでしょう。
現在安心してワインを購入できて、飲むことができるのは、このような経緯があったのです。