
シャトー ペトリュス(CHATEAU PETRUS)は、ボルドーのポムロールに位置するシャトーです。
メドックの5大シャトーの数倍の高値で取引され、価格とともに品質もボルドー最高峰とされています。
生産本数がわずか4500ケース程度(54000本)で、人気が常に上回り市場にはあまり出回りません。
もっとも、ペトリュスがポムロールで一番の品質かどうかは実際には評価の分かれるところです。
(このシャトーが注目を集める前は、ヴューシャトーセルタンがトップだった)
しかし、アメリカやイギリスで圧倒的な人気があり、ワインの希少価値も相まってボルドー一の取引価格を誇り、ポムロール全体のけん引役として絶大な存在であることは誰しも認めるところでしょう。
世界の流通価格は35万円程度ですが、日本には割り当ての本数が少ないため35万円はボトムラインかもしれません。
対岸のシャトーラフィットロートシルトがおおよそ10万円ですのでどれだけの価格なのか、ワインファンであればお分かりでしょう。
シャトーペトリュス
ポムロールのトップ
ペトリュスのあるポムロールはリブルヌの街があって、その後背にあります。
ボルドーの右岸の中でもドルドーニュ川が大きく蛇行しているところにあって、サンテミリオンの低地と地続きで基本的にワインの品質もサンテミリオンに似ています。
サンテミリオンの低地と同様に基本的には粘土質ですが、砂利と砂が多く、これがワインに独特の味わいを与えているといわれています。
ポムロールの街はサンテミリオンのように中心地がなく、畑もなんとなく散らばっているのでまとまりがありません。
観光で訪れるとクライマックスというものがなく田園風景がただ続くので、ここが世界の名酒の生産地だとは普通は思わないでしょう。
ポムロールもボルドーだからワインはシャトー〇〇と名乗りますが、おそらく当の本人には恥ずかしくなっている人もいるかもしれません。
それもそのはず、シャトーとは名乗っていても、だれかの別荘のようなところで造っているところが多いのです。
ペトリュスはじめ少数のシャトーこそ設備投資が潤沢ですが、それ以外の多くは小規模で、その意味ではブルゴーニュに似ているかもしれません。
このように紹介すると
「ずいぶんひなびたところでワイン造りを行っているんだなあ」
と思われるかもしれませんが、それぞれのシャトーは粒ぞろいで、有名どころでなくてもワインの品質は極めて高いことが多いです。
ポムロールを名乗る届出をしている生産者はおよそ200程度ですが、ほかのエリアと違って生産者協同組合がありません。
これは何を意味するのかというと、小さな零細企業ではあっても自前でワインを造り、瓶詰めする気概をもって世に送り出している、ということでしょう。
そんな生産者の造るワインが悪かろうわけがありません。
そして、そのエリアのトップがペトリュスなのです。
シャトーペトリュス
肝っ玉母さんのシャトー
所有する畑は11.4haで、ポムロールの丘の最上部に位置しています。
土壌は青灰色の粘土層で、メルロと好相性です。栽培面積はメルロ95%、カベルネ フラン5%です。
畑は1956年の大冷害の後に植え替えられており、樹齢は古いもので60年前後です。
1973年から栽培でグリーン ハーヴェストを導入しています。収穫はすべて手摘みで行います。
ペトリュスでは収穫時にブドウに水滴がつくことを嫌い、午後に収穫を行います。
1984年には収穫直前に降った雨の水滴を飛ばすために、ヘリコプターの風圧を使ったという話もあります。
発酵は自然酵母のみを使用し、セメントタンクで行います。
発酵中はルモンタージュを行い、マロラクティック発酵もタンク内で行います。熟成は軽く焼きつけられた50~100%の新樽で行い、18カ月熟成させます。
そして卵白での清澄の後、ろ過はせずに瓶詰めされます。
ワイナリーの歴史
19世紀はアルノー家が所有者で、当時はシャトー ペトリュス アルノーという表記でした。
1925年から、リブルヌ地方でホテルを経営していたエドモンドの妻、マダム ルバがペトリュスの株を購入し始め、第二次世界大戦頃に単独でオーナーになります。
マダムルバ(Marie-Louise Loubat)は、いってみれば肝っ玉母さんのような存在で、地元では他人の面倒をよく見ているような人気者でした。
当時からペトリュスは品質の高さで知られていたのですが、ポムロール自体が全くの無名だったし、世間の耳目はもっぱら対岸のメドック一辺倒。
ここに目を付けたのがマダムだったのです。
彼女のすごいところはペトリュスの価値を信じぬいたところにあります。
ペトリュスの品質が唯一無二であることに確信をもつと、メドック格付け1級以上の値をつけ、それ以下では安売りを決してしなかったのです。
保守の権化のようなボルドー社交界はこの行為を冷笑し、侮蔑し、そして中傷したのですが、肝っ玉母さんはその程度では引き下がらなかったのです。
マダムにすれば、ワインの価値を格付けや既存の名声で判断する当時の業界は「価値を品評する能力がない」と映ったのかもしれません。
伝統にしがみついたボルドーのワイン界は相手にせず、単身パリやイギリス、アメリカに売り込みに行くのです。
なんの後ろ盾もない田舎町のシャトーワインだったのが、現在のペトリュスになるなど、このころ誰が予想したでしょうか。
もちろん世界でただ一人、マダムルバだったのです。
売り込みは早くから奏功し、まず1933年にはパリのニコラ社がそのままの価格でオンリストします。
さらにニューヨークでは当時随一と言われたレストラン パヴィヨンへの売り込みにも成功し、秘蔵っ子のワインとして紹介されるようになるのです。
このようにして徐々にフランス以外の国で知られるようになり、もちろん元々の品質の良さが見直され、評価は高まったのです。
1947年からワインの販売をジャン ピエール ムエックス氏に託し始めます。
1967年にマダムルバは相続人がいない状況で亡くなったのですが、遺言により姪や従姉妹にいったんは所有権が移転します。
これを法人化したものをムエックス社が徐々に購入をはじめ、2001年に単独所有者となります。
2009年からは新体制となり、ジャン ピエール氏の息子のジャン フランソワ氏がオーナーに、弟のクリスチャン氏が社長になりました。
クリスチャン ムエックス氏は、醸造と経営を管理しており、ナパ ヴァレーのドミナスも所有しています。
評論家ロバート パーカー氏は、ペトリュスを「もはや神話の象徴だ」と評しているなど、ペトリュスは評論家やワイン愛好家から高い評価を得ています。